『人魚の森』原作より

この文書では、あのなりそこないが佐和による人体実験の結果であるという可能性を論証する。

佐和が人魚の血を姉に使った目的は?

最初に、佐和が人魚の血を登和に試したことについて考えよう。描写より直ちに、佐和は人魚の肉が猛毒であることを完全には信じていなかったことが判明します。もしそうでないならば、佐和は死期の迫っている登和に対して人魚の血を試すべき理由が見あたらなくなってしまうからです。

この時点での佐和の目的は「姉を助ける」及び「人魚の肉の効果を試す」です。少なくとも前者が含まれていないとすることは、状況描写を見る限りに於いて無理でありましょう。そして、「だっていつまでも若く美しいなんて、素晴らしいじゃないの」と不老不死に佐和が憧がれているという事実があること、及び、その時点で人魚の肉が猛毒である可能性が存在することを併せて考えますと、後者もまた除去し得ません。

なぜ肉をとれなかったか?

さて、次に「肉はとれなかったけど…」の理由を考えましょう。なぜ佐和は肉をとれなかったのか?。ここで直ぐに思い浮かべられる理由は、「なりそこないがいたから」、「単に手が届かなかったから(穴の下に降りれなかったから)」、及び、「人魚が死んでいなかったから」の3種があります。

まず第1の理由は、もしなりそこないがいたならば佐和は父親からそのことを聞いている筈であり、もし聞いていたならば登和に対して人魚の肉を実験しようとは思うまい(先の台詞より佐和は人魚の肉がとれたのであれば当然にそれを試したであろう)。なお、現代における佐和は、なりそこないが「人魚の肉を食べて不老不死になりそこねた人間」であることを知っていることを留意しておくこと。

第2の理由については、作品の最後の方で登和が穴の下に降りることができたことが、この理由を馬鹿げたものにしている。

第3の理由については、佐和が「人魚の生き血」及び「不老長寿の人魚の…血ですもの」という言い方をしたことが論拠となっている。

いつ、犬はなりそこない化したか?

ところで、作品中の状況描写より佐和らの父親が健在していた時にはなりそこないになった犬は存在し得ないと見なすべきである(その期間については「何十年も(中略)父が他界するまで」の台詞でおおよそ判明する)。しかしながら現在では、犬がなりそこないになっている。さらに、父親が他界したとされる直前で佐和が知っている事実の一つに、登和がいつまでも若く美しいことがあげられよう。年月が過ぎても外見上は全く老化しない登和を見て「もしかしたら人魚の肉は本当に不死の妙薬かも知れない。だけど肉はまだ試してないし…」と思ったとしても不思議はあるまい。

この2つの推定より、「佐和が父親が健在であった時期よりも後に犬に対して人魚を試したこと」は充分にあり得ることである。

佐和はなりそこないの存在を知らなかった

さて、佐和が犬に対して人魚を試したことは、人魚の肉が猛毒であることを完全には信じていなかったことを物語っている。信じていなかったのは何故か?。真魚らに会う前の佐和が知っている範囲では不老長寿になれた者など一人もいなかった筈である。もし、不老長寿(佐和の期待したようなもの)になれなかった者を一人でも知っていたならば(つまり人間のなりそこないが存在していると知っていたならば)、佐和は犬に対して人魚を試したりするだろうか?

仮説の論証

佐和はなりそこないが存在していたことを、この時点(父親が健在であった頃)で知っていなかったと見なすべきなのである。そして、現在の佐和は、なりそこないが存在しており、それが「人魚の肉を食べて不老不死になりそこねた人間」であることを知っているのである。

よって、登場したなりそこないは佐和による人体実験の結果であるということが充分に可能である。

Satoshi ARAI ( arai@rumic.gr.jp )